幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII [ 岸見一郎 ](Amazon)
概要
世界的に有名なフロイト、ユングと並ぶ心理学の巨頭アルフレッド・アドラーの思想を「哲学者と悩める青年」の対話形式でわかりやすくまとめた本の第2弾。
前著の「嫌われる勇気」を読んで頭の中の霧が晴れるような体験をしましたので、ぜひ続編も読もうと思い、読了しました。まずは「嫌われる勇気」を読んでから、さらに理解を深めたい場合に読むといいと思います。今回も↓アドラー心理学を読み解くように物語が進んでいきます。
相変わらず芝居がかった二人の対話ですが、本書ではさらに言葉が大げさになっており、クスリとしながら読めました。
前著の「嫌われる勇気」の要約レビューはこちら
全体の構成
舞台は「嫌われる勇気」から3年後。アドラーの思想に目覚めた青年は新たな職を得て、アドラー心理学を教育の現場で実践しようとしていましたが、挫折したために哲人に訴えるところから始まります。
今回は5部に分かれており、前著と似たような構成でした。前著で出てきた概念やアドラーの思想を下敷きとして話が進んでいきます。一応、都度説明を入れてくれてはいます。
「嫌われる勇気」の感想で章ごとに書いていたら記事がものすごく長くなってしまったので、今回はポイントのみ感想を記入していきます。
アドラー心理学は誤解が容易で理解が難しい・実践も難しい
教育の現場でのアドラー心理学の再現は不可能だと訴える青年に対し、哲人によると アドラー心理学ほど誤解が容易で理解が難しい思想はないとのこと・そして実践することが難しい
アドラー心理学を具体的にどのように実践していけばいいのか、再び、対話を通して教えてくれるようだ。
私自身もこの青年と同じように嫌われる勇気の読後、大きな解放感と心から救われた思いをした。
理論の実践に関しては、そこまで難しいような気はしなかったが、日々少しずつ当初の感動が薄れてきていた(それは実生活でどう実践すればいいかわからなかったからかもしれない)ので、興味を持った。
実践が難しい、精神論だけの宗教なのでは?
まず改めて、アドラー哲学は宗教なのではないかという議論が始まった。心理学と哲学と宗教の共通点と違いについて整理する対話がある。
この中で面白かった話
心理学も哲学も宗教も、出発点は真理が知りたいというところから発する。しかし、探求の歩みを止めて、竿の途中で飛び降りることを宗教と呼ぶ。
哲学は常に探求の道を歩き続けること。哲学は学問ではなくて生きる態度だという。
宗教は物語や神の名のもとにすべてを語る。
そこが両者の絶対に違う点。なので、アドラー心理学は宗教ではない。
教育を主題としてアドラー心理学の実践の手がかりが示される
尊敬について
今回青年は教育者となっているため、学校という現場において前著にも出てきた「課題の分離」が実生活において教育(生徒への叱咤・褒賞)と相反しているという悩みを持っていた。
そこで鉄人から大きな指針として尊敬を示される。ここでいう尊敬とは、「あの人は唯一無二の存在であることを知る能力」のこと。そしてアドラーの勇気づけの原点でもある。ありのままの、その人を認めることが具体的に尊敬を実践するための手がかりになる。
そのためには、他者の関心事に関心を寄せ 他者の目で見て 他者の耳で聞き 他者の心に感じること。(これもまた勇気がいることだと思った)
また、勇気と尊敬は伝染するという話も出てきた。これは今まで何度も経験があるので頷けた。
過去について
改めて、嫌われる勇気で言及されていた「過去は存在しない」と言う話が繰り返しされる。不幸な過去はその人が必要として捏造することで存在する。よって「これからのことを考え始めた時」過去は関係なくなる 。
賞罰は不要
叱ったり褒めたりするのは、相手が色々な問題行動を起こすためであるが、問題行動の目的として5つの段階に整理している。
1賞賛の要求 2注目喚起 3反抗 4 復讐 5無能の証明
となり、4以降は通常の社会生活内では対処は難しいほどのレベルという。通常は褒めてほしい・認めてほしい・劣等であってもそれが特別なことであれば執着する、といったことが問題行動として現れる。
賞罰はそれを助長してしまうため、不要だというのがアドラーの主張。
ではどうすればよいのか?というと、前述した尊敬を実践するということになる。
暴力は人間として未熟なコミュニケーション手段
暴力とは、コストの低い、安直なコミュニケーション手段。
叱るという行為もそれと同じ。また耳の痛い話が出てくる・・・
では教育者(親)はどうすればいいのか?
賞罰は不要。では教育者は何をしなくてはいけないのか。
それは相手を自立させるために選択を相手にゆだねる、見守ること。
教育の目標は自立である。
なぜ 褒めることはいけないのか
褒めることによって競争が生まれる。競争原理ではなく、「協力原理」を根付かせる。競争原理は縦の関係に行き着いてしまう。上下関係では競争・依存・支配しか生まれない。
アドラー心理学の提唱する横の関係を貫くのが協力原理。全ての人が対等であり、他者と協力することにこそ共同体を作る意味がある。
共同体感覚の概念の成り立ちは、実に合理的な話だった!
人間は、子供時代1人の例外もなく、劣等感を抱えて生きている。
他の動物と違い、人間だけは心が先に成長し体の発達が遅れを取るため、周囲の大人たちにはできるのに自分にはできないことが多すぎる。
また人間は生物学的に弱い動物であるため、共同体を作っている。
そのため、全ての人には共同体感覚が内在するというのがアドラーの主張。
実は共同体感覚は常に身体の弱さを反映したものであり、切り離すことができないのか…
人間の抱える最も根源的な欲求は所属感。つまり、孤立したくないという欲求(孤立したら生物的に生きることができないから) 承認欲求は、その欲求から来ている。その他大勢になりたくなく、特別でいたいと考えるのはこのためだという。しかし、承認欲求には終わりはなく褒められることに依存する。永遠に満たされることはない一生になってしまう。
私の価値を他者に決めてもらうことは依存
私の価値を自ら認めることを自立とよぶ
自立と共同体感覚がどうつながるかは、後述の愛のタスクで紐解かれる
ええい、この…! !
本書の中盤以降は、実は青年の悩みは、教育者としての悩みではなく、青年自身が幸せになっていないため、自分自身が救われるために(自己満足のために)教育者となったのだとまで哲人に看破され、議論はクライマックスに向かっていく。
前著であまり触れられなかった仕事・交友・愛のそれぞれの人生のタスクについても対話が交わされる。
青年は仕事のタスクのみしか考えていなかった(考えないようにしていた)
アドラー心理学では、全ての悩みが対人関係の悩みである。
そして全ての喜びはまた、対人関係の喜びである定義が隠されている。
青年が拠り所としていた仕事のタスクが深掘りされる。
信用と信頼の関係
人間は弱い生物なので、分業し文明を築かなければ生き残れない。
だから仕事のタスクが生まれており、信用の関係は生存に必要だから選択の余地がない。ただし、仕事のタスクだけでは幸せになることはできない。信用の関係は結局は機能としてしか個人を計れず、皆代替可能な存在として見られてしまうから。
信頼を基にした交友関係のタスク
交友関係のタスクに踏み出さないと、何も始まらない。信頼とは相手の嘘までも含めて相手を信じることを指すが、人間は他人の心を知ることはできない。分かり合えない存在だからこそ、信じるしかない 。
交友関係のタスクでは、対象は特に昔からの親友に限った話ではない。目の前にいる身近な人を信頼する(自分が、そうすること)ことが、交友のタスクが目指すところ。それには、自分が自分を信頼していないとできない。(青年は自分を信頼しきれず、交友のタスクに踏み出せずにいた)
愛のタスク
議論は愛のタスクに移っていく。アドラーによれば、愛は恋のように「落ちる」のではない。意思の力によって、何もないところから築き上げる。だからこそ愛のタスクは最も困難。愛とは2人で成し遂げる課題。
しかし 我々はそれを成し遂げるための技術を学んでいない。学校でも家庭でも教えてはくれない。
仕事の関係はギブアンドテイク。
交友の関係はひたすらに相手を信じ、こちらから与えるもの。
愛の関係は利他的でも、利己的でもない。なぜか?
それは、世界の主語が「わたし」から「わたしたち」に変わり、「わたし」がなくなることで自立(自己中心性からの脱却)が成されるから。
愛されることよりも、「愛すること」の方がはるかに難しく、勇気がいる。
愛することで相手が自分を同じように愛してくれる保障などないのだから。しかし、その恐怖を乗り越えて「自分から先に愛する」ことが愛のタスク。愛のタスク(自立)の先には対象が伴侶以外にも広がり、共同体感覚に繋がっていく。そして人生がより楽に、幸せなものとなるというのが、アドラー心理学の示すところだという。
そして運命の人はいない。
愛のタスクを実践するのに、運命の人を待つ必要はない。身近な目の前にいる人から実践していく(とにかく、自らが始める)というのがアドラーの教え。(ここでも勇気がカギとなっている)
嫌われる勇気の時と同じで、過去も未来もなく、今ここを生きる。ダンスを踊るように生きる。目の前の人の手を取り踊り続ければ、後世の人はその二人の軌跡を運命と呼ぶかもしれないが、今この時には運命は存在しない。ただ踊っている二人がいるだけ。
これはすごく腹落ちしました。
なぜならまさに自分がそのような変遷をたどってきているから。
そして、当初は特に何も感じずに踊り始めたことで、今ではこれが運命とは言わずとも、とてもぴったりな相手だと感じているから。
今後も本当に試されるのは、歩み続ける勇気
最後は、哲人自身さえもアドラーの教えは完結しているものではない、今後もたくさんの人が真理を探して対話し続け、歩み続けるものとして、青年と別れて物語は終わります。
今回も、大きな感動、気づきとともに勇気をくれる本でした。
最後は物語的には寂しさを覚えるものでしたが、それ以上に今後も得た気づきを生かしてより楽しく、心すこやかに生きられるようになりたいと思えました。
幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII [ 岸見一郎 ](Amazon)
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